
春秋戦国時代末期の儒教学者、荀卿(紀元前三三〇~前二二五年頃)の言行をまとめた『荀子』の勧学篇の冒頭には、
君子曰、学不可以己。青取之藍而青於藍、冰水為之而寒於水。……
(君子が言う。「学問は中途半端にやめてはいけない。青い色は藍草を材料として作るが、藍草より青いし、氷は水からできるが水より冷たい。」……)
と書かれている。これは、学問をすることによって人間はその先天的素質よりもさらにそれ以上の能力を発揮させることができると述べ、そのためには何よりも自身を高めるため息うことなく持続して学ぶことが大切であると語っている。
荀卿(孫卿ともいう)は、春秋時代の晋国が魏、韓、趙の三国に分裂した趙の国の古くからの名族の出身である。孔子から孟子へと受け継がれた儒教思想を、戦国末のきわめて厳しい状況の中で、現実的な観点に立って綿密な論理を駆使して、儒教学徒としては異端視されるほど柔軟で広がりのある思想を展開させた人物である。古代から絶対的存在として崇められてきた天の存在を否定するとともに、自然と人間の関係において、自然への理性的な捉え方、積極的な働きかけを強調したこと等は、その考え方の大きな特色であった。
またさらに、“人の性”については、人間は放任すると欲望の赴くままに振舞い、社会にも混乱をもたらし易いと考え、礼儀による師法の教化や指導がぜひとも必要であると説いた。さらに、安定した国家の形成には、単に君子の道義的心情に頼ることなく、客観性のある“礼制”による体制の推進を意図したのもその性悪説に由来するものであった。また、現実的な立場からは、法の価値を正当化し、秩序と安定のために厳正な刑罰をも肯定する論理を含んでいると受けとめられている。
荀卿の経歴については、古くは司馬遷の『史記』<孟子荀卿列伝第十四>に見えるが、五十才以降のごく簡単な記述のみで、その全容はその言行録に拠らざるを得ない。
思想家としての荀卿の遊説は、四十才後半に秦に入ったことが『荀子』<儀兵篇>から窺えるが、現実の政治に疎いと見られがちな儒教は、秦の政治的土壌の中で馴染みにくく、荀卿の熱心な説得も効を奏さなかった。その後五十才で山東・河北にわたる大国、斉に向かう。『史記』によると、稷下の学士が集う時には多くの学者に敬慕されたのか、「三たび祭酒(儀式の場面での最高の長老)と為る。」と記されている。しかし、ここでの平安な日々は長く続かず、政治上の対立もあってか謗言によって、やむなく、長江流域から江南に広がる大国、楚の国に移る。名大臣として名高い春申君(?ー前二三八)に請われて蘭陵(山東省南部の蒼山県)の長官となるが、春申君の死後は、荀卿も罷免され、政治上の舞台から去り、自身の著述と後進の育成にひたすら努めた。記述によると、数万言の言辞を後世に残して蘭陵の地に葬られたと言われている。
荀卿の生涯は政治的には華々しいものではなく、その生き様はどちらかと言えば地味な存在であったようである。しかし、秦漢を含めた後の歴史を通覧すると、現実に即応するその思想は、次代にきわめて大きな影響を与えたことは事実であろう。彼の下で学んだ学徒も多い。
ところで、先述した「勧学篇」の「青取之藍」の文については、後の元刻本の伝来では「青出之藍」となっていて、本来の意味から離れ、“出藍の誉れ”の語源となった。現在、師を越えるような人物となる譬えとしてこの言葉が一般に流布されている。荀子の門徒について考えると、法家の思想を大成した韓非、晋の始皇帝に仕えて丞相となり、天下統一の偉業を補佐した李斯等は先ず挙げねばならないだろう。
『史記』の老子・韓非列伝には韓非について、
韓非は韓の諸公子なり、人となり口吃して道、説する能わず。而れども善く書を著す。李斯と倶に荀卿に事ふ。
と書かれている。青年時代に荀子に師事したのは、西隣の強国秦に常に脅威にさらされている国を思い、確かな理論を修得して国を救いたいという一心から考えたことだろう。しかし、吃音のため弁論を不得手としたので、学問に励んで刑名法術の学を修め、天才的ともいえる明折な才能を発揮して十余方言に及ぶその著述を成しとげ、新しく法家の思想を確立させた。
この韓非に対し、李斯については、学問に志すその動機や生き方はやや不純とも功利的とも受け止められている。
『史記』の<李斯列伝第二十七>は、李斯が楚国の小村の小役人をしていた時の話から始まる。役所の厠に住む鼠は汚物を食べ、絶えず人や犬に怯えて神経を尖らせている。一方倉庫にいる鼠は常に積まれた穀物をありつき怯える様子もなく過ごしている。これを見て、「人の賢愚も鼠と同じで、その境遇によって決まる」と思い、それより帝王の術を学ぶため、李斯に師事したと書かれて入る。
その後、学を修め、大功を立てる余地があるのは秦のみであると判断し、氏の心配を余所に遊説に立ち向かっていく。楚国を去るにあたり、“自身の才略を生かそうとしないのは、鳥獣が餌を前に食べられず眺めているようなもの”、“恥は卑賤より大なるはなく、悲しみは貧困より甚しきはない。”等と語り、何としても立身出世富貴栄達を求めようとする悲壮な決意を覗かせている。
本伝の内容は、大きく前後に別れるが前半には幸運にも秦に仕えることができた李斯があらゆる障害を乗り越え、いかなる手段をも辞せず、ひたすら目的のために突き進む姿が描かれている。その間には同門の韓非の著述が始皇帝の大きな関心を呼び、魏の使いとして韓非が秦王に謁見した際には、ライバルの登場を危ぶみ、詭弁を弄して入獄させ、ついには友人をも毒殺に至らしめたことが<韓非伝>に見える。
類稀な行動力や弁説をもって始皇帝の信任を次第にかちとり、ついには天下統一の大事業に参画し、丞相となって位人臣極めることになる。一族のものがすべて栄誉と富を得た絶頂期でもあった。
しかし、その後半は、会稽山巡幸の途上始皇帝の突然の死に合って政局は急変する。宦官趙高の甘言と自身の欲望にかられて判断力を誤り、始皇帝の長子、扶蘇及び優秀な武人文人でもある蒙恬将軍を退け、少子胡亥を二世皇帝に擁立する。その結果、その後には趙高の策謀にあって刑に処せられ悲惨な最期を迎えるのである。
この人生ドラマについては、東洋史研究に掲載された宮崎市定氏の「史記李斯列伝を読む」という著名な論考がある。この列伝は『史記』の中では中国固有のリズムである起承転結の最も顕著な叙述として取り上げ、このドラマの周辺について綿密な考察が加えられている。
『史記』における「孟子荀卿列伝」、「老子韓非列伝」、「秦始皇帝本紀」、「李斯列伝」等を改めて読んでみると、各々の人物の生き様が窺えて興味が尽きない。しかし、その功罪については不明なことも多く一概に決し難い面もある。司馬遷のその評価に対する描き方にも矛盾や逡巡も見られるからである。
李斯については、丞相として活躍した時代には、郡県制の確立や度量衛、車輪の軌軸の制定、さらに貨幣や文字統一の献策等次々大事業を推進したと伝えられる。しかしその反面、焚書抗儒の実践者としての汚名も残している。これとて天下統一と国家の安定には必要であったとも考えられなくもないが“金文”以外の肉筆資料の残存がきわめて稀少化された現実を考えると、その罪過はとてつもなく大きいと言わざるを得ない。また、書道史における李斯については、『史記』<始皇帝本紀>、許慎の『説文解字』、『漢書』(芸文志)等に、言語文字の省改を行って篆書(小篆)を作るとともに、「倉頡篇」七章の字書を作製したと伝えられている。また、始皇帝の天下巡幸の時に刻まれた「秦山刻石」、「琅琊台刻石」等の頌徳碑は、李斯の書とも言われている。しかし、著者と確認する資料は全くなく、おそらく偉人に仮託されたものであろう。また、文字統一についても、一九七五年発見された湖北省雲夢県睡虎地の墓が出た竹簡等の資料等からその真偽についての疑念も表れている。冨谷至氏は「李斯と篆書制定」について、“書同文字”というのは、一般にいわれる統一文字ではなく、いくつかの種類に分かれて段階づけらる公文書に使う書体の規定と考えられると述べている。
李斯は、あくまで政治家であって、文学者でも、書人でもなかったのかも知れない。
この稿では荀子とその二人の門徒の歩みを少し追ってみたが、人の生き方というものを改めて考えさせられるのである。学ぶというこおてゃ自らの資質を高めるもので、“出藍”よりも“取藍”であらねばならないだろう。
荀卿の門にはもう一人、師が最も信頼し、優秀と認めていた包兵子という人物がいた。混沌とした時代にはその姿は見えなかったが、前漢の昭帝が始元六年(前八一)に天下の賢良、文学の士を集めて下門した議論書「塩鉄論」にはじめてその名が登場する。時を隔てて李斯と比較されたその人物像は、世に出ることを望まず、ひたすら清貧を楽しみながら道を修め、志を貫いたと語られている。世論が彼を支持しているのは、死後その学問が次代で生かされつつある証であろう。
夏を迎え空も海も一層青々として見える。この際立つ青さは陽光がそうさせるのである。人に当てられる光もまた自然んぽ運行の中で生まれるものであろうか。
2007_6 「書の美」巻頭に寄稿