
日本人の美意識も時代によってうつりかわっていったことはいうまでもない。前に述べた幽玄の美の質も時代や社会環境の動きにつれてその違いをみせている。そのため、日本人の独自な美意識といわれるものの中でも一見して相反するように思える要素をもつ場合もでてくる。しかし、つきつめてみると、表面に表われている資質の違いとはうらはらに、その精神の奥では、その深浅は別にして共通した世界がやはり広がっているものと思われる。
貴族、公家を中心とした文化の中で競われた優美艶麗な情感の美は日本人の重要な美意識であるが、中世末から一転するかのように、形に表われる美を極力おさえた新しい表現美が展開される。“わび”、“さび”に通じる美意識がそれである。それは王朝時代に見られるような、つややかさ、はなやかさ、なまめかしさといった感覚的な美の求め方ではなく、むしろ、色も、音も、声も消えうせてしまったような無機質な状態の中から生じる冷え枯れた寂しさ、強さ、厳しさ、鋭さといった美意識の発見に目が向けられている。
これは、表面的にはまったく質の番う要素の要求と単純に考えられ易いが、そうとはいいきれない。これは相反するものが意識されて表わされたというより、精神性をより尊ぶ日本人の精神の純化作用がつきつめられていく中で自然に表われたとも考えられる。
日本人の美の追求はより深さを求めようとする傾向が強いが、これは一方では単純化の方向をとるとともに、素直な自己の発露を求めることになる。周知にあるさまざまな表現要素をどんどんとり除いて無に帰し、偽りのない人間そのものの実在を自然に浮かびあがらせ深めようとするのである。わびやさびの精神もいうならば日本人の本来の特性を上り極めようとしたもので、表面のみに表われる美を否定して心の幽玄さを求めようとしたといえる。その結果として、“冷えた枯れた”“冷え痩せた”美が質を変えて表われたといえよう。
能や俳諧、茶や生花、庭園等の美は日本独自な美として評価されるが、これらはすべて表面的、外形的美の否定によって成立している。外面的形式的浮薄さを棄て、美をもっぱら内面的に深まりに向けようとしているといえる。美の質も空虚さ、清潔さ、静寂さを大切にするとともに、豪華な華麗さに対して、素朴さ、健康さ、無造作といった要素をも美の要因として新たにうかび上がらせた。
芭蕉の「笈の小文」にみられる有名な一節に、
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶に、その貫通するものは一なり。
とあるが、美を最も自然なるもの、素朴なるもの、わざとらしくないものとしながら、精神の深化が姿をかえながら試みられたのであろう。