
すべてのことをあますことなく表現するのではなく、どんどん洗練の度を加えて、本質のみを簡素な形で表現しようとするのが、日本人の表現美の特徴である。このことは、前にも述べた通りであるが、多くの内容を凝縮して一つの簡素な形に表わしていくときには、おのづと表現するものの裏側に種々さまざまな内容をつつみかくしていくことになる。その結果、そこには自然にいろいろな感情を呼びおこさせるとともに、さまざまなイメージをふくらませることになってくる。余情とか余韻といわれる情感がそれである。
表現の簡素さから必然的におこるこの余情等の風趣もまた、古来から日本人が尊んできた美の一傾向である。見る者、聞く者、味わう者側が補ったり推し測ることによってはじめて完成される未完や不足の状態が趣きをより深めるものとして大変愛好されてきたのである。
兼好法師の有名な文句に、
花はさかりに月は隅なきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月をこひ、たれこめて春のゆくへも知らぬも、なほあはれに情ふかし。
咲きぬべきほどの梢、散りしをしれたる庭などにこそ見所多けれ。
<徒然草・百三十七段>
とある。ここには、花や月の風情は、さかりの時、欠けたり影のない時だけが美しいのではなく、もうすぐ咲きそうな状態や、すでに散りおえたあとの風情にも見所があると述べられ、さらにまた、雨の夜に見えない月を恋うような心情にこそ、本当の内面の深さがあることが語られている。
充ち足りるという状態は勿論安心感をともなうことになるが、ともすればそれだけに終わってしまい易く、感情の動きは少ない。心情の機微の深さや広がりはむしろ充足が欠如した状態の中でよく発揮されるものである。
このことは単に文学や芸術に表われる感覚だけでなく、日本人の日常の生活感情の中にも形をかえればいくらでもみられる点である。日本人は外国人よりむしろ生動する情感を内に強くもちながら、表面的にはそれを抑えようとする傾向にある。どのようなはげしい感情の高揚に際しても平静さを保って心に余裕をもつことを称揚したり、くどくど飾りたてる弁舌を嫌い、多くを語らずして心底に響かせるあり方を一種の美徳としてとらえることも多い。これも表現の簡素化、制約によって生み出ていくものである。
表現の簡素化、制約をおし進めてその極地に至ると、無の状態となる。無の状態に近づけば近づくほどより有情の内容が深まるともいえよう。文学でいう“言い残す”ところ、演技における“せぬ所”“ひま”、“絵画などにおける“空白部”、音楽における“間”などもこのことと密接につながっている。