
先月号で日本人の自然感にふれながら、自然なることの大切さについて少し述べてみたが、これは、角度を変えてみると、わざとらしさを拒んで素直さを尊重する日本人の性情とたいへん密接につながっている。素直さとはすっきりものが通っていくように変なとどこおりや飾り気のないありのままの状態をいうものである。
この素直さは人為的に技巧をこらしたような装飾性をいみ嫌う表現面での問題ばかりでなく、その前提となる心のあり方についても語られることである。
ものを生み出すということは、見聞きしたこと、感じたこと、思考したことを何らかの形にあらわしていくことであるが、対象に接していく場合には私意や作意を持たないでその内側にまっすぐ入ろうとする態度が素直なものの接し方である。また自己の感情の表出においてもこのことがいえよう。
しかし、人間の感情の素直な表出といってもさまざまな感情の種類があって一概にいえない点も多いし、時には感情が激するように高揚する場合もあって複雑である。しかしながら人心の感情といっても別に特別なものがあるわけでなく、すべてが常のことにすぎないといってよいだろう。それだけにたとえ少々平生と異なる感情があってもありのまま自己を表出しても自然さを失うことはない。
日本の精神的嗜好から尊ばれる素直さの質を更に考えてみると、その質はどちらかというと、平正なるもの、質朴なるもの、おだやかなるものを大切にしてきたようである。中世文学論の代表的な心敬の連歌論に
無上のよき連歌は湯水などを飲むごとくなり。
させる味はひはなけれども、いつ聞くも飽かぬものなり……、
とあったり、梵灯庵の歌論に
心を工み風情を飾る句は、当座はおもしろきや
うなれども、五句の内に二、三句は非道へ行く連歌あり……
等とあるように、巧みな技巧をこらしたり、面白さや珍しさをねらった作為的なものには必ず欠陥があるとし、むしろ淡白な味わいであっても自然なるものには不変のよさがあることが述べられている。
このことは、日本のあらゆる分野で同様に語られていることでもあるが、実際の表現となるとこの境地を得ることは本当は難しいことである。実際の表現では、ものを表わすために物数を極め、工夫を尽す必要があって当然技術の習練が要求されるだけに、その行為をくり返すたびに矛盾が生じる恐れが応々にしてある。それだけに、真の素直さが得られるのは、最高の境地に至った名人、達人にして初めて可能なことであるかもしれない。素直さから出て素直さに帰る美の歩みは日本の美を考える上で大切なことである。