
日本の美の特色を具体的に見つめようとする時、まず問題にしなければならないのは、自然とのかかわり方であろう。これは絵画や文学等直接関わる分野ばかりだけでなく、あらゆる芸術や文化の中で、その精神が大きく影響を与えていると考えられるからである。ことに日本人は、“いけ花”といったような他に類のない独自の美的行為を生み出しているが、西洋とは自ら異なる自然感やそれとの関わりがあったといえよう。
“人間は物事の尺度である”といった考えを基に急速に展開させた西洋の文明は、どちらかというと自然を対象化して自然と対峠する傾向が強かった。つまり、人間と自然とは見るもの、見られるものという立場でとらえられ、知性によって対象である自然にひそむ法則や秩序を認識しようとしたのである。さらにこれが進むと自然を変形し征服する課程が進歩と考えられるようになっていった。
これに対して、日本の伝統文化のあり方はむしろ自然との融合に心を砕いてきたといえる。自然のよさをもっとも自然らしい姿のままを残しながら生活や美的行動の中に生かそうとしてきたのである。野山に咲く草花をさりげなくいけたり、丹精をこめて庭に草花を咲かせて楽しむ日本人の行為もこの自然感から生まれている。自然に対するこの親しみと謙虚さは、もちろん、高い美的行動における人工的に自然を定着させる場合においてもよく発揮されてきた。
しかしながら、自然は四季によって変化するように固定的なものではなく、常に新しいものを生み出し続け、片時もとどまることはない。それだけに自然をもとに展開される美的活動には、自然のもつ精神性を得るための豊かな想像力が必要となってくるのは当然である。より高い日本の美的表現には外形や色彩の美しさといった単なる物質的な美しさをただ表わすだけではなく、生きている命とでもいうべき、さまざまな感情をともなった自然への関わり方が要求されてきた。それは自然を見つめることによって生まれてくる自己のよろこびや悲しみ、あるいは苦しみや楽しむ感情である。しかも、その表現は素直で純粋なることがより尊ばれてきたといえる。
自然の「自」はおのずからとも、みずからとも読む。自己を示す場合と、物事があるがままにとか、ひとりでに、といった意味で使う場合がある。自然に接して素直にあるがままの自己の感情を表出すると、敢てこじつけてみると日本の自然感を理解し易いだろう。ことに日本人は着かざった華麗さや装飾性をさけたり、或いは合理的なとらえ方に乏しい一面もあり、この自然感は直接自然の風物を素材としない美的活動にも間接的には大いに影響を与えていることだろう。つまり、自然の精神性ということ、精神の自然さということ……、この二つが一体となるところに日本美の極地が示されてきたといえよう。