
先月号でも述べたように、“芸は教えるものではなく盗むものだ”という教育理念は、日本のあらわる技芸の中でよく語られている点である。すぐれた先達の卓越した要素や技術を自分のものとするには自分の目と体を通してしか悟ることができなかったのである。このことはおのおのの日本人の芸に対する自覚と自発性、創造性を大いに伸長させることになったといえる。ごく一般の熟練した職人のつくったささいなものの中から高度な芸術品として評価される作が次々生じているのもこの精神の発展によるものといってよいだろう。
この日本人の語らずして悟らせる教えには、美的原理や秩序だてた方向づけに言辞をともなわないことが多い。そのため、西洋的尺度でみるならば、理論のない感覚的なものとして受けとられる一方、客観性のない根の浅いものと扱われ易い。事実、日本の技芸の中で明治以後芸術的でないと軽じられてきた分野も少なくない。しかし、日本人の技芸にはそれぞれ土台をなす確固たる基本や型が存在していて単なる感覚的なものではない。これは言葉でいい表わせない要素も多いが、より美しいものを生み出すための骨格を形成するもっとも重要なものとして必ず要求され、また、これを求めていく鍛錬の過程にはそれなりの方向づけも備わっていて、言辞で語る理論をもたなくても十分客観性をもつ芸術的対象として大いに自負できるものばかりである。
さて、日本人のこの盗むという学ぶ態度は、前に述べた肌で感じとる感性と連動して学ぶことになるが、自らの手と体を通して1つ1つ確かめながら進めていかざるを得ない。それだけにこの過程には長い年月の試行錯誤が必要となってくる。自らの目と力でものをさとり生み出していく主体的なこの姿勢は、自己の個性をより発揮させ易い一面をもつと同時に、試行の中から新しい美的要素の発見を誘発する要因を多分に持っていると考えられる。もちろんものの理にそって合理的機械的にものをつくっていくのと同じように、実際には慣れに甘じて型をただ真似たり伝承していく場合も多いし、理に律する面に欠けるきらいがあるので、情に流されて他からの影響を受け易い場合も否めないが、自らの力で求めていくこの姿勢には何よりも人の情熱が強く加わって力強い生命力をやどすことになる場合が多い。
人を感動させるものは、何かというならばやはり生命をゆり動かす“力”と言わざるを得ない。人間の感情に根ざした生命の力や魂のはたらきが、人の心を動かすことになるのである。単に論理的な思考だけにたよったものには生命の力は希薄である。日本人の技芸やその学び方は、どちらかというと人間感情を中心とした展開があって、生命の力強い働きが基盤になっていることを改めて自覚したいものである。