
日本人がものを生み出したり、つくっていく場合、もっとも重要に考えてきたのは、対象を生のままの状態でとらえないで、精神の中でいかに深めていくかということであった。これは心で対象を見極めとらえるということであるが、そのためには、あらゆる角度から、あらゆる状況からその対象をまず知りつくし心に焼きつける必要があった。
正面のある角度から対象をながめたり、追っていくだけでは存在の一部をとらえるだけで、そのものの内に入ることは到底できなく、内に入るには、上から下から、左から右から、あるいはそれをつつむさまざまな周辺をもしっかり見つめていかなければならないことはいうまでもない。いうならば、対象を一つの塊のように、立体的にとらえて心に定着させることが大切であった。
この行為はあくまで対象を心にしっかり焼きつけるとともに、さらにそのものの生命や本質を見出そうとするものであるが、すぐれた美を生み出した日本の先人達が最も腐心してきたことである。
このことが日本人により強く意識されてきたのは、日本人の美的表現における特異な用材の使用などもやはり相乗作用をなしているといえよう。例えばキャンバスに油絵具を塗っていくような洋画と違って、日本画は絹や紙に色を染みこませていくが、これは二度と訂正がゆるされない緊迫した状態におかれており、しかも瞬間瞬間にものを描いていかねばならないので、表現技法の修練もさることながら、心に描くもののイメージが鮮明に定着していなければうまくいかないのである。制作以前に練りに練ったものが暗に描かれている、そのような要素が必要なのである。
また、昔より日本彫刻の中心となって展開してきた木彫による仏像の彫刻などは、このことが一層顕著になってくる。同じ彫刻でも塗土などでもりあげながらものを形づくっていくのとは大いに違う。いくらでも添削がきいたり、自由にくぼみやふくらみができる石膏などと違いただ削っていくだけで、いったん削りはじめたらもう途中で訂正できないのである。しかも平面ではなく裏も横も上も下もしっかり立体的にとらえていかねばならないので、彫る前に彫る形がしっかり定まっていなければ彫れるものではない。よい仏像を彫る時には「木材の中にすでに彫られる仏の形が見えていなければならない」といわれるが、そこにははっきり美のあり方が示されているようである。
ものの本質をしっかり把握でき、それを基に自在に表現できるということは対象と自己が融合できた状態にある。あおの状態はいうならば対象を通じて自己を見出したといってよいかもしれない。そこは誰もが介在できない絶対的存在となるからでもある。